無敵ということ

物理的に強いことの言葉として「無敵」という語がありますね。
でもどんなに力を誇示しても、敵はいなくなりません。物理的に強くなっても「なんだあいつは」と思われては仕方ありません。それは本当の無敵とは言いません。周りにうらみ、怒り、反感をもつ人がいれば、無敵とは言えないのです。

本当の無敵は、自分を敵視する人が居ない状態です。周りが自分を好きでいてくれる状態です。
周りに好かれないといけません。周りの人全てに好かれたら、そりゃ無敵でしょう。
周りに好かれるには、自分が周りを嫌いにならないこと。まずそこから始めること。

というように師から言われます。耳が痛いです…反省x3です。
どうでしょうか、経営者、リーダーのみなさま、親としての役目を負っている方々。

無敵と言われて私が思い出すのがネルソン・マンデラ(Nelson Mandela: 1918-2013)です。
自伝「Long Walk to Freedom」を読むと面白いです。
まだ人種差別の圧政がしかれていて、彼が投獄されているときのこと。そのとき圧政側に居る看守にまで、彼は好かれていたようです。”おまえなら良い”とか”お前となら話す”とか、こっそり何かもらったりとか、一緒にドライブ(えっ!?)とか、とにかく認められていたようです。ついには、看守をやめて彼のコックになる人まで出てきたようです。敵にまで好かれていたんですねぇ〜。これこそが無敵じゃないでしょうか?

マンデラは、サッチャーがゴルバチョフを評価した言葉を使ってこう言います。

If you want to make peace with your enemy, you have to work with your enemy. Then he becomes your partner.

すごいですねぇ。

其身正…

「其身正、不令而行、其身不正、雖令不従、」*1
『その身(態度・言動・生活の仕方)がちゃんとしていれば、命令しなくても周りが動いてくれる。そうでないと命令しても誰も動いてくれない』
自分の身が正しくなければ、子供は言うこと聞かないよ、社員は動かないよ、国民はそっぽ向くよ、誰も協力してくれないよ、と言っています。

耳が痛いですね〜。
親・経営者・リーダー・組織の一員・コミュニティや家族の一員・一人の人間として、これができているかどうか。私はできていませんねぇ…反省。

「身が正しい」=「正しい生活をする」ですが、人間ですから初めから正しいことはなく、色々失敗しています。それを正すには、原因・結果を知り、原因を切り替えてゆけば良い。過去やってしまったことは消去できませんが、今切り替えれば未来の結果は変わります。そうやって人生を切り拓けと。
そのときに必要なのは、まず決意して心を定めること。目標に心を定めること。これを信念といいますね。そしてそれを続けること。続けることにより変化が起きてきますね。そのときに何か止まっている感じになるかもしれませんが、次の動きを出すために力を蓄えているときは、止まっているように見えるものです。バネが縮んでいるときみたいな。でもそれが次の変化につながります。ですからあきらめず続けること。気学はここを教えてくれます。

「君子以恐懼脩省。」*2
『できる奴(成功者)は、真剣に自分をふりかえることをするんだよ』
孔子は本当に徹底していますね。似たようなことを言っていますが、こちらの文の方が力強いですね。ズンっと心に落ちてきますね。

*1: 論語、子路第13
*2: 易経、震為雷の大象。象伝は孔子が書いたと言われている

学而不思則罔、思而不学則殆

学びて思わざればすなわちくらく
思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し

みなさんご存知の句ですね。
よくわからないのが「殆(あやうい)」の字ですが、說文解字注によると「殆」は「危也。危者、在高而懼也。」とあります。高いところに居て危ない状態。つまり高い”台”の上にのっていて、足元がグラグラと不安定になっている、いつ崩れるかわからない、そんなこわさ・危なさということでしょう。
俺が一番だ!となり、自分の足元をしっかりせず、下をかえりみないと全て無くなります。場合によってはだれかに剥奪されるかもしれません。
この字をもってきた孔子の凄さを感じます。

この文は、勉強しろ・復習しろと単純に言っているわけではないですね。

学而不思則罔
学んだことを繰り返し考え実行しなければ身につかない。
「罔」は、「暗い」ですし、「無い(康熙字典による)」です。日々の繰り返しの実践がなければ、自分は暗いままになってしまい、無になってしまうと警告しています。

思而不学則殆
さらに孔子は踏み込みます。
ある程度学んで実践すると「俺は知っている、やっている、わかっている」となり、学ぶことをやめてしまうわけですね。師のもとに行かなくなります。そして自分勝手な工夫をし始めます。
どんな分野でもスポーツであっても、それが今日までに続いてきた以上、過去の全ての人の蓄積から流れがきています。それを無視して、自分の経験だけで新たな物を作ってしまう。それが本筋から離れているかどうか分からずに。自分一人の経験は特殊です。だれも自分と同じ経験をしていません。だから自分の経験だけで判断するのは暗さの中に居ることになります。自己流の工夫をして、その工夫にがんじがらめになって抜けれなくなります。まるで蟻地獄です。それを脱して明るい所にでるには、師に附き、学ぶことが必要です。そうしないと無になります。

「我流は三流」と師によく言われています。学んで一段階引き上がったら、なおさら師に附き、学ぶことが大事です。
(師は複数居てもかまいません。プロのスポーツ選手などは、高校の時の師と、社会人の時の師と、プロになってからの師、成績を残したあとの師は違うことが多いですね。それで良いと思います。)

Strategy

翻訳の語がまぎらわしいのであえてStrategy、Tacticsと書きます。(戦略、戦術、文明、文化など、紛らわしい翻訳語は個人的には言葉を変えて欲しいと思っています)

Tacticsは、今目の前にある問題を潰すことです。
例えるなら、ボールが飛んできたらそのボールを打つ。追っかける。取る。野球のゴロやフライをイメージしてもらうといいですね。ボールだけを見ている。

Strategyは、今ないものに対処することです。未来のことを考えて動くことです。
例えばボールは右に飛んでいるけど、左や逆のほうに走っているみたいな。アメフトが良い例だと思います。ボールを投げる人と一見連動しない動きをします。前だけでなく、後ろにも右にも左にも走ります。通せんぼする人も全く動かない人も居ます。突進する人もいます。投げると見せかけて自分で走ったり、後ろにパスしたりします。ボールだけを見ていないんですね。
ボールを数多くゴールまで運ぶのが目的ですが、そのために今はここまで進むことが大事とか、敵に悟られずにあそこにボールを持って行くとか、そういう事を考えているからです。場合によっては、ここは進まなくても良いという判断もします。もっと大きく見ると、1シーズン生き残るために今は負けておこうとの判断もあります。
これがStrategyです。

日本の小学校の教育では、四則演算ができることとか、都道府県が言えることとか、そこだけが注目されます。これはTacticsです。たんなる技能です。ボールしか見ていないんですね。
人間に必要なことは技能だけではありません。スキルとともに、先のことを念頭に置くことが大事です。ボールだけを見るのではなく、未来も同時に見るのですね。

今目の前にあることだけに注目するような教育ですと、問題があれば解決できる人間は育ちます。しかし、今問題がないときは何もできない人間になってしまいます。その場合おうおうにして、問題探しにかかってしまいます。問題探し、アラ探し、ドブさらいばかりしていては未来は拓けません。

20年後の自分はどうありたいか。3年後自分はどうなっているか。そのためには1年後はどうあるか。そのためには今何するか。このようなことを持つ・実践することが大事ですね。

またショックにも強くなることが大事です。どんなショックを受けても3日で立ち上がれるようになれば(気持ちをたてなおすことができれば)、悪い状況でもいつかは抜け出すことができます。これは生きる力に直結します。生きる力を失ってもそれを早く取り戻すこと。生きる気力がなければ行動も起こせません。

技術、スキルよりも大事な事がらですね。

徳をもってす

老子「報怨以德」(うらみに報いるに徳をもってす)(*1)
ブッダ「怨みに報いるのに怨みをもってしたら、怨みがやむことはない。怨みをすててこそやむ。」(*2)

すごい言葉です。なかなかできる事ではないですね。
どちらも紀元前の言葉ですが、東洋というのは人間の徳、人間力、人格、そういうものに価値をおいてきたのですね。

*1「老子」63章。
*2:「ダンマパダ」の5番目。
中村元(1912-1999)、Acharya Buddharakkhita(1922-2013)はこの文脈で訳しています。Acharyaの英訳は
“Hatred is never appeased by hatred in this world. By non-hatred alone is hatred appeased. This is a law eternal.”
Max Müller(1823-1900)の英訳は
“For hatred does not cease by hatred at any time: hatred ceases by love, this is an eternal rule.”
想像なのですが、『ダンマパダに”憎しみは憎しみでは消えない(超えられない)。愛(慈しみ)によって憎しみは消える”とある』としているのは、Müllerの英語訳から来ているのかもしれません。これはこれでわかりやすいですし、心理学的にも良いなぁと思います。