流れ行く大根の葉

 流れ行く 大根の葉の 早さかな
 高浜虚子

上流で皆が川で大根を洗っている。葉がとれて川に流されている。大根を洗うぐらいなのでとても綺麗な川なのでしょう。そこに緑のみずみずしい葉が一枚流されてきて、それがさっと目に飛び込んでくる。キラキラ光る水の中に鮮やかな緑がさっとすぎる。
そんな様子を私は想像します。貧相ですね(笑)皆さんはもっと想像を膨らましてみてくださいね。

来るものがいない、頼るものがいない。窮地に立った時や何か始める時にはそんな状況になることがありますね。そんな中で一人でやらないといけなくなることもあります。人間の人生のひらきかたは、その状況をどう捉えるか一つで変わってきますね。
一人ぼっちで苦しいと捉えるか、「私はこうする」と腹を決めて周りに流されずに動くのか。気学では「万初」といい、腹を決めろといいます。

周りの評価におそれず、一本の目標で動き続けて成功した例はいっぱい在りますね。私が今思いつくのは、例えばソニーのウォークマン、青色ダイオードなどです。ウォークマンは社内で反対されても創りあげていったものですね。青色ダイオードは誰もが諦めていたことをただ一人で長年やり続けた結果ですね。青色ダイオードによって、今の電子機器はガラッと変わってしまいました。映像機器だけでなく、照明、信号、PC、スマホなど、生活をがらっと変えてしまいました。商品というより産業革命みたいなものですね。

この一人でいくことの清々しさというものが、流れゆく大根の葉のようですね。
「人がどうするかなぁ?」ではなく「私がどうするか」。その目標に向かって「たった独りでやるのぉぉ?」ではなくて「私から全てが初まる。これが全ての初めだ。」とするか。
そうして独りで歩いてきた人の周りに人が多く集まってきて、初めは独りで大根を洗っていたのが、多くの人が洗いにやってきてワイワイやるようになりますね。小さな川だったものが気がついたらとてつもなく大きな川になっていきますね。例えばウォークマンとか青色ダイオードかのように。このなんと清々しくも雄大なことか。
下から上へ気持ちを立ち上げる、自分を立ち上げる。自分がないと周りに流されるだけになります。自分が大根の葉としたら、単に川に流されていくのか、自分で海に向かって行くのか。それによって人生の拓き方がかわってきますね。
気学はこの大事さを教えてくれます。

勘とか霊とかは入れない

孔子、論語の述而に

 子不語怪力亂神。
 子、怪、力、乱、神を語らず。

雍也に

 樊遲問知。子曰、務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣。
 問仁。曰、仁者先難而後獲、可謂仁矣。

 樊遲(はんち)、知を問う。
 子曰く、民の義を務める、鬼神を敬うが之を遠ざける。これを知というべし。
 仁を問う。
 曰く、仁者は難きを先にし、獲るを後にす。仁というべし。

「敬鬼神而遠之」の部分と「子不語怪力亂神」は同じような感じですね。神や先祖は敬うけれども、それべったりにしない。それで判断しない。怪異や神秘のことは話をしない。

師に言われています。「九星気学風水(家相)の鑑定をするときには、一切の勘を入れないこと。ちゃんと気学の理論にしたがうこと。
またそれ以外の理論は一切入れてはいけない。気学の理論に系統の全く違う別の理屈を混ぜてはいけない。例えば霊の話や神秘の話、他の占術など混ぜてはいけない。」
たしかに論語に言われているように、理論を無茶苦茶にするような混同は「知」と言えませんね。ましてや神秘や霊のセイにしたり寄っかかったりしては「知」に程遠いですね。
学べば学ぶほど九星気学風水の理論は緻密であると驚かされます。かなりな理論だと感心します。それを中途半端にするのはもったいないですね。しかも生きかたを教えてくれます。

おまけで
「仁者は難きを先にし、獲るを後にす」ですが、論語の「古注」によると「まず労して、後に功を得る」で、「唐石経」には「難」が「労」になっているということです。(金谷治著『論語』による)
ここは個人的に「労」がしっくりきます。というのも、五行は「木→火→土→金→水→」の流れになっていて、「金」が獲得、成果です。水の苦労のスタート→木の発展から→火→土→金となりますから、成果を直ぐに獲得することはできません。水木火土をちゃんと踏んでいかないと結果は出ないです。金銭をすぐ求めても得られません。結果を得たければ一白水星の苦労から始めて順に積み上げないといけないですね。それを気学は教えてくれます。

無敵ということ

物理的に強いことの言葉として「無敵」という語がありますね。
でもどんなに力を誇示しても、敵はいなくなりません。物理的に強くなっても「なんだあいつは」と思われては仕方ありません。それは本当の無敵とは言いません。周りにうらみ、怒り、反感をもつ人がいれば、無敵とは言えないのです。

本当の無敵は、自分を敵視する人が居ない状態です。周りが自分を好きでいてくれる状態です。
周りに好かれないといけません。周りの人全てに好かれたら、そりゃ無敵でしょう。
周りに好かれるには、自分が周りを嫌いにならないこと。まずそこから始めること。

というように師から言われます。耳が痛いです…反省x3です。
どうでしょうか、経営者、リーダーのみなさま、親としての役目を負っている方々。

無敵と言われて私が思い出すのがネルソン・マンデラ(Nelson Mandela: 1918-2013)です。
自伝「Long Walk to Freedom」を読むと面白いです。
まだ人種差別の圧政がしかれていて、彼が投獄されているときのこと。そのとき圧政側に居る看守にまで、彼は好かれていたようです。”おまえなら良い”とか”お前となら話す”とか、こっそり何かもらったりとか、一緒にドライブ(えっ!?)とか、とにかく認められていたようです。ついには、看守をやめて彼のコックになる人まで出てきたようです。敵にまで好かれていたんですねぇ〜。これこそが無敵じゃないでしょうか?

マンデラは、サッチャーがゴルバチョフを評価した言葉を使ってこう言います。

If you want to make peace with your enemy, you have to work with your enemy. Then he becomes your partner.

すごいですねぇ。

其身正…

「其身正、不令而行、其身不正、雖令不従、」*1
『その身(態度・言動・生活の仕方)がちゃんとしていれば、命令しなくても周りが動いてくれる。そうでないと命令しても誰も動いてくれない』
自分の身が正しくなければ、子供は言うこと聞かないよ、社員は動かないよ、国民はそっぽ向くよ、誰も協力してくれないよ、と言っています。

耳が痛いですね〜。
親・経営者・リーダー・組織の一員・コミュニティや家族の一員・一人の人間として、これができているかどうか。私はできていませんねぇ…反省。

「身が正しい」=「正しい生活をする」ですが、人間ですから初めから正しいことはなく、色々失敗しています。それを正すには、原因・結果を知り、原因を切り替えてゆけば良い。過去やってしまったことは消去できませんが、今切り替えれば未来の結果は変わります。そうやって人生を切り拓けと。
そのときに必要なのは、まず決意して心を定めること。目標に心を定めること。これを信念といいますね。そしてそれを続けること。続けることにより変化が起きてきますね。そのときに何か止まっている感じになるかもしれませんが、次の動きを出すために力を蓄えているときは、止まっているように見えるものです。バネが縮んでいるときみたいな。でもそれが次の変化につながります。ですからあきらめず続けること。気学はここを教えてくれます。

「君子以恐懼脩省。」*2
『できる奴(成功者)は、真剣に自分をふりかえることをするんだよ』
孔子は本当に徹底していますね。似たようなことを言っていますが、こちらの文の方が力強いですね。ズンっと心に落ちてきますね。

*1: 論語、子路第13
*2: 易経、震為雷の大象。象伝は孔子が書いたと言われている

学而不思則罔、思而不学則殆

学びて思わざればすなわちくらく
思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し

みなさんご存知の句ですね。
よくわからないのが「殆(あやうい)」の字ですが、說文解字注によると「殆」は「危也。危者、在高而懼也。」とあります。高いところに居て危ない状態。つまり高い”台”の上にのっていて、足元がグラグラと不安定になっている、いつ崩れるかわからない、そんなこわさ・危なさということでしょう。
俺が一番だ!となり、自分の足元をしっかりせず、下をかえりみないと全て無くなります。場合によってはだれかに剥奪されるかもしれません。
この字をもってきた孔子の凄さを感じます。

この文は、勉強しろ・復習しろと単純に言っているわけではないですね。

学而不思則罔
学んだことを繰り返し考え実行しなければ身につかない。
「罔」は、「暗い」ですし、「無い(康熙字典による)」です。日々の繰り返しの実践がなければ、自分は暗いままになってしまい、無になってしまうと警告しています。

思而不学則殆
さらに孔子は踏み込みます。
ある程度学んで実践すると「俺は知っている、やっている、わかっている」となり、学ぶことをやめてしまうわけですね。師のもとに行かなくなります。そして自分勝手な工夫をし始めます。
どんな分野でもスポーツであっても、それが今日までに続いてきた以上、過去の全ての人の蓄積から流れがきています。それを無視して、自分の経験だけで新たな物を作ってしまう。それが本筋から離れているかどうか分からずに。自分一人の経験は特殊です。だれも自分と同じ経験をしていません。だから自分の経験だけで判断するのは暗さの中に居ることになります。自己流の工夫をして、その工夫にがんじがらめになって抜けれなくなります。まるで蟻地獄です。それを脱して明るい所にでるには、師に附き、学ぶことが必要です。そうしないと無になります。

「我流は三流」と師によく言われています。学んで一段階引き上がったら、なおさら師に附き、学ぶことが大事です。
(師は複数居てもかまいません。プロのスポーツ選手などは、高校の時の師と、社会人の時の師と、プロになってからの師、成績を残したあとの師は違うことが多いですね。それで良いと思います。)