悦び

易経や論語を見ていると「孔子って厳しぃーー」と思うのですが、意外や意外、論語の中では「好」「楽」という字が頻繁にでてきます。
「楽しみ(悦び)」というものが必要だと言っていますね。
論語、雍也に
 知之者不如好之者、好之者不如樂之者。
 これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず。
とか、論語、学而に
 …未若貧而樂道…
 …未だ貧しくして道を楽しみ…
とか、論語、雍也に
 …知者楽…
とか。探すともっと出てきます。

趣味のことをしているとき、友だちと話していると楽しくうれしいと思えますが、でもそれはその行為が行われている間だけですね。終われば楽しみ悦びはそこで終わります。(逆もありますね。仕事に打ち込んでいる間だけは嫌なことは忘れているが、終わったら空虚感が出たり嫌なこと思い出したり。)
本当の悦びは、何もしてなくても、独りでいても「うれしい」と思えることでしょうね。これが悦びの極み(完成)ではないでしょうか。
それを得るためにどうするかというと、気学は次のように説きます。
まず自分に何かを入れること。入ってくるものを多くすること。勉強を多くする、人の話を受け入れる、相手を入れる(相手に合わせる)こと。良いものを積極的に入れていきます。自分の要求を先に出すのではなく、周りの要求を先に入れるのも大事とときます。
また入れるだけでなく出すことも大事といいます。どう出すか。感謝や悦びの言葉を出すのか、恨みつらみの言葉を出すのかで違ってきます。
良いものを入れる・出すを繰り返していると、自分の器が大きくなっていきます。自分が切り替りかわってゆくのですね。商売でも時代性や地域性を受け入れて合わせていくのが手ですが、それと同じ事です。自然と変わっていくこともあるでしょうが、受け入れるのですから切り替えざるをえないでしょうね。結局は自分を切り替えろと言っているのです。
このように何を入れ何を心にとどめどう出すか。どう日々切り替わっていくか。これが悦びのもとと気学は説きます。