学而不思則罔、思而不学則殆

学びて思わざればすなわちくらく
思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し

みなさんご存知の句ですね。
よくわからないのが「殆(あやうい)」の字ですが、說文解字注によると「殆」は「危也。危者、在高而懼也。」とあります。高いところに居て危ない状態。つまり高い”台”の上にのっていて、足元がグラグラと不安定になっている、いつ崩れるかわからない、そんなこわさ・危なさということでしょう。
俺が一番だ!となり、自分の足元をしっかりせず、下をかえりみないと全て無くなります。場合によってはだれかに剥奪されるかもしれません。
この字をもってきた孔子の凄さを感じます。

この文は、勉強しろ・復習しろと単純に言っているわけではないですね。

学而不思則罔
学んだことを繰り返し考え実行しなければ身につかない。
「罔」は、「暗い」ですし、「無い(康熙字典による)」です。日々の繰り返しの実践がなければ、自分は暗いままになってしまい、無になってしまうと警告しています。

思而不学則殆
さらに孔子は踏み込みます。
ある程度学んで実践すると「俺は知っている、やっている、わかっている」となり、学ぶことをやめてしまうわけですね。師のもとに行かなくなります。そして自分勝手な工夫をし始めます。
どんな分野でもスポーツであっても、それが今日までに続いてきた以上、過去の全ての人の蓄積から流れがきています。それを無視して、自分の経験だけで新たな物を作ってしまう。それが本筋から離れているかどうか分からずに。自分一人の経験は特殊です。だれも自分と同じ経験をしていません。だから自分の経験だけで判断するのは暗さの中に居ることになります。自己流の工夫をして、その工夫にがんじがらめになって抜けれなくなります。まるで蟻地獄です。それを脱して明るい所にでるには、師に附き、学ぶことが必要です。そうしないと無になります。

「我流は三流」と師によく言われています。学んで一段階引き上がったら、なおさら師に附き、学ぶことが大事です。
(師は複数居てもかまいません。プロのスポーツ選手などは、高校の時の師と、社会人の時の師と、プロになってからの師、成績を残したあとの師は違うことが多いですね。それで良いと思います。)