その言を聴きてその行を観る

論語、公冶長に、

 子曰、「始吾於人也、聽其言而信其行。
 今吾於人也、聽其言而觀其行。」
 始め、われ、人におけるや、その言を聴きて、その行いを信ず。
 今、われ、人におけるや、その言を聴きて、その行を観(み)る。

誰かが何かを言った時、人というのは割とその言葉を信じてしまう傾向があります。それが近ければ近いほど。あるいは言っている相手に地位があるとか肩書きがあるとかの時ほど。孔子ですら最初はそうだったようです。でも孔子はそれを改めました。行動を観るようにしていると。相手の言う事は記憶には留めておくが、最初から全面的に信用せず、その行動が合っているかどうかを観ているということです。中身を観ているのですね。言葉よりも中身で判断します。
にたようなことを、論語、為政でも言っています。でもこれは観察される立場から言っています。

 子曰、「先行其言、而後從之。」
 先にその言を行い、而して後にこれに従う

どちらの文も耳が痛いですねぇ、相変わらず。なかなか出来るものではありませんね。
つい人の言葉に左右されてしまい、中身を見ることができず、本質を見失いがちです。
また逆の立場に自分を置き換えてみると、はたして行動で示してから言葉を付け足せているのかどうか。
議員、経営者、リーダー、親にこれらが求められる場合が多いですね。

人の行動を観るのは簡単そうに思えて簡単ではないでしょう。ちゃんと人の行動(中身、本質)を観れるようになるには、自分自身がタライで手を洗わないといけない、つまり自身が日々の生活で心身ともに正しくないといけないと、気学・易は言います。
あなたが相手を観ているようでいて、実は周りから見られているのは自分。だから身を正せと言います。この論語の2文は表裏一体なのですね。
また観るときの態度にも注意があります。柔らかく周りにあたること。悪意が無いこと。軽々しく行わないこと。考えぬくこと。相手の知恵を借りること。そうして初めて信用が得られ、リーダーとなり、部下等の指導が出来ると言います。そうすると2文目は、リーダーが身を正した行動をすると周りがついて来るようになる、というようにも読めますね。
「孫子」にも、将(リーダー)の資格として「厳」を挙げています(計篇、「将者智信仁勇厳」)。これは相手に厳しいとか威張り散らすとかではなく、まさにこの孔子の言ったこと、その背景にある気学・易の考え方です。自分自身に対して厳しくし、身を正すという事を言っています。部下や協力者の信用を得られずしてリーダーは務まりませんから、そのためにまず自分の身を正せと言っています。
信用を得るための道は、高い山に向かうような感じですね。

創造性は積み重ねた失敗から生みだされる

BBCのサイトに”Art and Fear”という本(2001年、David Bayles)の紹介がなされて(11/14)
それをうけてgigazineが記事を書いていました(11/17)
それによると、独創的な芸術作品は量をこなした場合に生まれ、一点の作品に集中しても良いものが出来なかったそうです。
芸術だけでなく、例えばダイソンは5126個ものプロトタイプという失敗を重ねてあの革新的な掃除機に至ったそうです。あの製品は最初から完成形は頭になく、失敗を繰り返すうちに徐々に出来ていったそうです。
これらをうけて、失敗を受け入れよ、あえて失敗する、という点を教訓としてあげています。gigazineでは粘り強く諦めずに失敗し続ける覚悟も必要と言っています。
なるほどなぁ、と感心しました。
原典の主張から少しずれるかもしれませんが、これは一白・二黒の話だなぁ、と感嘆しました。

二黒は、続けること持続が大事で、それにより根ができしっかりと立てるようになると説きます。
受験勉強でもスポーツでも何でも良いので、なかなか出来なかったことが、ある瞬間にパッとできるようになった時を思い返してみてください。そこまでに至るのに多くの事を重ねていませんでしたか?
なかなか理解出来なかった問題、解けなかった問題が、何度も何度も繰り返しているうちに突然理解できたり、その延長で応用問題もパッとわかるようになったり。
これですよね。

実は生命体は、日々同じ事を繰り返すことによりある時突然変化します。こうして進化をしてきました。人類が道具を持つようになるのに何万年かかったでしょう?火を使うようになるまで何万年かかったでしょう?多くの道具を作り出し、農耕に至るまで何十万年かかったでしょう?。
このように日々の繰り返しの連続によって変化(進化)が生まれるのが生命体です。
個々人も同じでしょう。なにか一つ決めてそれを続けること。これが変化と向上の秘訣ですよね。
今の生活で続けることが無いのであれば、なんでもいいので決めて始めてみましょう。靴は揃えて脱ぐ、椅子はかならず入れる、毎日必ず本を読む、犬と散歩する、味噌汁つくる、仏壇に手を合わせるなどなど。これを仏教では戒といいました。戒が向上のもと・変化のもとなんですね。
そして自身で続けることを心に決め、心をかためる、心をおこす。この一白の事も大事です。
やはり人生は一白・二黒から創っていくのだと感心した記事でした。

一般的でない読みの名前

10月22日、京大が発表しましたね。”大手の名前ランキングサイトを集計してみると、漢字を通常とは違う読み方をして、新生児の名前にしている場合が増えてきた。これは日本の社会や大衆の心理が変わってきたと予想”、とのことらしいですね。

驚いたことに「海」で「まりん」と読ませるような場合もあるとかないとか。本当かなぁと思って、ちょっとその大手のサイトを見てみたのですが、そこまでひどくはないものの、まったく漢字の読みに無い音がずらっと並んでいて目を丸くしてしまいました。
例えばランキング上位の「翔」ですが、旺文社の漢字典(音読み、訓読み、人名読みを載せている、一般的な価格帯の漢和辞典です)をひくと、音よみで「ショウ」です。訓読みはありません。それで、これを使った名前
「大翔」のよみが
ヒロト、ハルト、ヤマト、ソラ、タイガ、タイト
もう全くわかりません。
漢和辞典は高くないものもいっぱいありますし、義務教育の時に購入しているはずですので家にあるはずです。調べてからつけるべきです。

姓名鑑定上、最近でてきたようなこのような読ませ方はお勧めできません。全く。
漢字には意味と音があります。意味と音により気は出来上がってきます。それに人生が影響されます。ですから字を大事にしていただきたいのです。

かなり昔の話ですが、「よろしく」というのを「夜露死苦」と書く人達が現れました。冗談で書いていたと思います。それが時代を経ると、マンガ・小説などでこのような当て字が使われるようになりましたねぇ。まだこのような読みが出始めの時は、マンガや小説の中だけの冗談・ジョークのような感覚だったと思います。漫画や小説をかく側にしてみれば、面白さを引き出すためであったり、キャラクターを覚えてもらうために行った行為だと思います。そこには「作り手と受取り手が、本来の漢字の音と意味を、互いにわかっている」という前提の上での言葉遊び・連想ゲームみたいな感覚があったと思います。「宇宙」と書いて「そら・ぎんが・スペース」ですかねぇ。使われていたのは。そういえば司馬遼太郎の作品に『翔ぶが如く』(とぶがごとく)というのがありましたね。これも正しい訓読みではなく、連想ゲームみたいな使い方ですよね。
私個人として思うのは、このような作品中の演出・言葉遊び・ジョークのやり方を、まに受けとり始める人達が出てきた結果が、最近の命名に影響しているのではないかと思っています。作り手の質がどこまで保てているかはわかりませんが、受取り手はちゃんとした本を読んでいない人が増えているのではないかと思っています。本は文学でも科学技術書でも推理小説でもSF小説でも良いのですが、演出や笑いに重点を置いたようなものではなく、ちゃんとした本です。ここに原因のひとつがあるのではないかと思います。

また、このような読みではないものの、可愛らしすぎる名前というのが女の子にありますね。
人間の名前は死ぬまで使うものです。5才だろうが80才だろうがその名前を使い続けます。可愛らしすぎる名前は、その子が小さい時にしか使えません。30才、40才、80才になった時、その名前で良いか?と考えてください。短期間しか使えない名前を人につけては可哀想です。子供時代にしか使えない名前は、姓名鑑定上、全くお勧めできません。
赤ちゃんはとても可愛いのはわかりますし、ご両親が悦んでいるのはわかります。そりゃ大変な思いをしていますもの。悦びはとても大きいですよね。その悦びのままに命名したいのでしょうが、そこでちょっと立ち止まって考えてください。その赤ちゃんが可愛いと思う気持ちの一歩先に出てみて、赤ちゃんを一個人としてみて、名前を考えてみてはどうでしょうか。

悦び

易経や論語を見ていると「孔子って厳しぃーー」と思うのですが、意外や意外、論語の中では「好」「楽」という字が頻繁にでてきます。
「楽しみ(悦び)」というものが必要だと言っていますね。
論語、雍也に
 知之者不如好之者、好之者不如樂之者。
 これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず。
とか、論語、学而に
 …未若貧而樂道…
 …未だ貧しくして道を楽しみ…
とか、論語、雍也に
 …知者楽…
とか。探すともっと出てきます。

趣味のことをしているとき、友だちと話していると楽しくうれしいと思えますが、でもそれはその行為が行われている間だけですね。終われば楽しみ悦びはそこで終わります。(逆もありますね。仕事に打ち込んでいる間だけは嫌なことは忘れているが、終わったら空虚感が出たり嫌なこと思い出したり。)
本当の悦びは、何もしてなくても、独りでいても「うれしい」と思えることでしょうね。これが悦びの極み(完成)ではないでしょうか。
それを得るためにどうするかというと、気学は次のように説きます。
まず自分に何かを入れること。入ってくるものを多くすること。勉強を多くする、人の話を受け入れる、相手を入れる(相手に合わせる)こと。良いものを積極的に入れていきます。自分の要求を先に出すのではなく、周りの要求を先に入れるのも大事とときます。
また入れるだけでなく出すことも大事といいます。どう出すか。感謝や悦びの言葉を出すのか、恨みつらみの言葉を出すのかで違ってきます。
良いものを入れる・出すを繰り返していると、自分の器が大きくなっていきます。自分が切り替りかわってゆくのですね。商売でも時代性や地域性を受け入れて合わせていくのが手ですが、それと同じ事です。自然と変わっていくこともあるでしょうが、受け入れるのですから切り替えざるをえないでしょうね。結局は自分を切り替えろと言っているのです。
このように何を入れ何を心にとどめどう出すか。どう日々切り替わっていくか。これが悦びのもとと気学は説きます。

流れ行く大根の葉

 流れ行く 大根の葉の 早さかな
 高浜虚子

上流で皆が川で大根を洗っている。葉がとれて川に流されている。大根を洗うぐらいなのでとても綺麗な川なのでしょう。そこに緑のみずみずしい葉が一枚流されてきて、それがさっと目に飛び込んでくる。キラキラ光る水の中に鮮やかな緑がさっとすぎる。
そんな様子を私は想像します。貧相ですね(笑)皆さんはもっと想像を膨らましてみてくださいね。

来るものがいない、頼るものがいない。窮地に立った時や何か始める時にはそんな状況になることがありますね。そんな中で一人でやらないといけなくなることもあります。人間の人生のひらきかたは、その状況をどう捉えるか一つで変わってきますね。
一人ぼっちで苦しいと捉えるか、「私はこうする」と腹を決めて周りに流されずに動くのか。気学では「万初」といい、腹を決めろといいます。

周りの評価におそれず、一本の目標で動き続けて成功した例はいっぱい在りますね。私が今思いつくのは、例えばソニーのウォークマン、青色ダイオードなどです。ウォークマンは社内で反対されても創りあげていったものですね。青色ダイオードは誰もが諦めていたことをただ一人で長年やり続けた結果ですね。青色ダイオードによって、今の電子機器はガラッと変わってしまいました。映像機器だけでなく、照明、信号、PC、スマホなど、生活をがらっと変えてしまいました。商品というより産業革命みたいなものですね。

この一人でいくことの清々しさというものが、流れゆく大根の葉のようですね。
「人がどうするかなぁ?」ではなく「私がどうするか」。その目標に向かって「たった独りでやるのぉぉ?」ではなくて「私から全てが初まる。これが全ての初めだ。」とするか。
そうして独りで歩いてきた人の周りに人が多く集まってきて、初めは独りで大根を洗っていたのが、多くの人が洗いにやってきてワイワイやるようになりますね。小さな川だったものが気がついたらとてつもなく大きな川になっていきますね。例えばウォークマンとか青色ダイオードかのように。このなんと清々しくも雄大なことか。
下から上へ気持ちを立ち上げる、自分を立ち上げる。自分がないと周りに流されるだけになります。自分が大根の葉としたら、単に川に流されていくのか、自分で海に向かって行くのか。それによって人生の拓き方がかわってきますね。
気学はこの大事さを教えてくれます。

則不得其正

今回は『論語』ではなく『大学』*1の一節を気学で読んでみましょう。

 所謂脩身在正其心者、
 身有所忿懥、則不得其正、
 有所恐懼、則不得其正、
 有所好樂、則不得其正、
 有所憂患、則不得其正、
 心不在焉、
 視而不見、
 聽而不聞、
 食而不知其味、
 此謂修身在正其心、

 いわゆる身を修むるはその心を正すにありとは、
 身に忿懥(ふんち)するところあるときは、則ちその正を得ず、
 恐懼(きょうく)するところあるときは、則ちその正を得ず、
 好楽するところあるときは、則ちその正を得ず、
 憂患するところあるときは、則ちその正を得ず、
 心ここにあらざれば、
 視れども見えず、
 聴けども聞こえず、
 食らえどもその味を知らず、
 これを身を修むるはその心を正すにありという。

5.先天定位盤 を使ってみます。

daigaku3

怒り、視る=九紫火星
憂い、聞こえにくい=一白水星
楽しむこと、食べること=七赤金星
おそれ=八白土星
です。

まず気づくことは、「視れども見えず…」の部分は「忿懥するところあるときは…」と関係しているということです。同様に「憂患するところ」⇔「聞こえず」、「好楽するところ」⇔「その味を知らず」です。何も思いつきで適当に「見えず」と言っているわけではないとわかります。例えば九紫のことができない(怒る)なら、九紫の他の意味合い(視る)も壊れていく、ということです。”xができないならxの同カテゴリーのyもできないね、当然の結果だよね”という感じでしょう。

次に九紫・一白・七赤・八白を先天定位盤に当てはめてみると面白いことが解ります。この文は盤の反対に位置する2つを頭に描いて言っているとわかります。この図をみていると、両方同時に崩れると言っている感じですね。九紫なり七赤なり片側にとらわれすぎると、その反対側(一、八)まで崩れるという警告です。どこかが出すぎれば全体のバランスが崩れる。天と地に一本柱を立てて、その柱に向かって座り、自分と向かい合う。そうすることで修正せよということでしょう。天=六白、地=二黒です。これは盤の中心にあり、一番上と一番下にあります。この2つをつなげる線はまさしく地から天に向かって伸びる線ですね。正中線ですね。そこをベースに整えれば、心ここに在るということでしょうね。

ついでに五行で見てみます。「視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず」は「九紫、一白、七赤」ですが、「火と水、火と金」の関係を持ってきていますね。水が悪いと火も悪くなる。だからやはり一つだけといっても外したり行き過ぎてはいけないということが解ります。

こうやって大学をみていると結構面白いです。気学の意味合いを使って言っているなという部分が多いです。さすがに孔子に匹敵するキレや深みがあるとは言いがたいですが興味深いです。
また大学には朱子の注釈のもの(大学章句)がありますが、個人的には章句よりも原本(旧本)の方をお勧めします。

ここまでの投稿で論語を気学・易にそって読むやりかたを5つ紹介しました。論語も大学も、日本語訳を読むだけでは、気学・易から言われているなと気づくことは不可能です。漢字オンリーの原文を眺めることでわかってきます。朱子などの後世の解釈本や日本語訳などは、気学・易から離れて書かれていて、場合によっては、彷徨(さま)よっている場合があります。やはり原文でしょうね。でもイキナリ原文を視ることはできないので、まず読み下し文を読んだ後に、原文を眺めると良いでしょうね。

*1:大学は礼記の一部分。孔子より随分後に作られたと言われている。韓愈(768-828)、程伊川(1033-1107)が注目し、のち朱子が四書の区分けに入れた。