漢字は楽しい(ネ草じゃないのよ)

姓名鑑定では漢字の意味を大事にします。そこで漢字を調べる機会が自然と多くなるわけですが、調べているとこれが本当に面白いです。(一家に一冊、白川静氏の『字統』をおすすめしたいです。)
さてこちらの画像の文字をみてみましょう。『字統』をもとに考えてみます。

上から3行目が日本のお役人が戦後決めた字形(いわゆる常用漢字)です。
戦前が2行目の文字。日本で旧字と呼ばれる字形。
西暦100年ごろに書かれた辞書(説文解字)に使われていた文字(篆文)が1行目です。ご存じのとおり漢字の起源はもっと古く、金文、甲骨文と遡ると、もう完全に絵です。

「観」の左側。なんと”こうのとり”を形どったものらしいです。「隹」自体が鳥らしいです。なるほど〜。言われてみれば鳥っぽく見えてきました。

例えば方位の「東」。木と木の間の太陽を書いたものらしいです。みているとなんとなく見えてきませんか?

ところが「柬(練、煉、錬)の右側」は、何かが入った袋の両端を縛った状態を描いたものらしいです。ほほー。どうりで日本でいわゆる旧字と呼ばれるものには、「東」と「東に似た点々の字」があったわけですね。
つまり、2つの、意味も形も違う別の字を、戦後の常用漢字では1つの書き方にするという過ちをおかしてしまっているということです。

「夢」。この上の「┤├」の部分は「くさかんむり」ではありません。元は「寛」の旁(つくり)の部分(うかんむりを外した字)からきていて、まゆげを太くした巫女が祈る姿らしく、それに「夕」を足しています。の部分が、なんとなく、目と眉のような気がしてきました(笑)。
「蔑」という字も似ている部分があります。これは目に傷があるか、目を凝らしているからしく、良く見えていないということらしいです。
今の常用漢字のようにくっつけて書く(⺾)と、意味合いとか形が変わってきますね。

さて社会運勢学の「社」。困ったことに、この偏(へん)を「ネへん」と言い出す人もいます。完全に常用漢字と今の教育が悪いですね〜。これは「示しめすへん」です(だいいちカタカナは日本生まれで、西暦1000年±100前後に成立)。
「社(社)、祈(祈)、祝(祝)、神(神)」などみなそうです。「示の部分」は、神さまや先祖などにお祈りを捧げる時、何かの物(お供え物とか儀式で使うものとか)置いていた台を形どったもの。地鎮祭などで使われている台を思い出すといいかもしれません。お祈りや見えないものに関係する漢字の偏が「示」なのはこういった理由からです。なんとなく台に見えませんか?

なんで「ネ」になったのでしょうね?日本でいうところの「明朝体」という字形があります。コンピューターのフォントを作っている会社の解説をみますと、これは宋(西暦960-1279)の時代から使われ始めたらしいです。毛筆文書(筆しかないですよね、この時代)や、後に木版印刷に使用され始めた字形らしいです。つまり、小さく印刷しても見れる、簡単に彫れる、早く書ける、もっと言えば「こうやって書けば格好いいんだぜ!」みたいな崩し字だったのかもしれません(これは私の勝手な想像です)。「本来はこう描いて、こちらは手抜きの書き方ね」ということを忘れてしまってはいけないですね。漢字には意味が有りますから。戦後、この明朝体をもとに、今の常用漢字を考えたそうです。おかげで「ネ」に変わったそうで、個人的にはダメなことをしたな、と思っています。

「曾(曽)」と「會(会)」が見分けがつきにくいですね。曾(曽)は、こしきで、湯気がたちのぼっているさまを描いたものとのこと。湯気か〜。だから上にのびていて、上が空いているわけですね。
逆に會(会)は、食器に蓋をしている状態らしいです。蓋だ!だから「ー」が上に入っているわけですね。納得。
ということで、曾(曽)の旧字体は、見間違いを防ぐためにも、意味合い的にも、ちょっと上を開けたほうが良いと思います。

「匹」の外枠四角部分は「セ」に似た書き方をします。馬がならんでいて、そのお腹と前足、ということですが、、、こればっかりは金文の絵をみても想像つきませんでした(笑)。どなたか謎解きをお願いいたします。

「亀」は、亀の姿を描いたもの、ということらしいです。「ヨ」の形っぽいのが手足でしょうか?。すると右は背中の甲羅。なんとなく見えてきますね。上の「[ | | ]」部分は顔・目でしょうか?出目金かな?尻尾長すぎないか?とかいうのは横に置いておきましょうか。

以上のように、とても漢字は興味深いです。辞書をみるのが楽しくなります。
子供に「この漢字、どうしてこう書くの?」と言われて「こうだからこうなの!」と言うとつまらなくなるでしょう。「実はこういう絵が基でね、こうなってね」等々話すと、楽しく学べますし記憶に残りやすいと思います。

また、本当の意味合いを知ることによって、文章の読み書きや鑑定にも役立ちます。学者だけが意味合いを知っていれば良いものではなく、多くの人、後世の人に、伝えていくことが大事なところです。漢字は世界で現存する文字の中で、「意味・イメージ・音」の3つを持っている、数少ない文字なのですから。地球人類の財産と言ってもいいでしょうね。

何度か言いましたように、国自体が漢字の意味合いを消してしまうような字形を教育しています。
現在はコンピューターが生活に多く入り込みましたが、そこで使われている字形も、意味合いを軽視したような字形があります。幸い正しい字形もフォントに含まれることにはなりましたが、不十分さは否めません。
今はこういった時だからこそ、漢字を大事に考えたいですね。

日盤カレンダー

年末ということで、日盤カレンダーをつくってみました。

日盤カレンダー

拡大、縮小しても綺麗に表示させるため、SVGを使用して描いています。
サイズが大きいので、縮小してご覧ください。

また、次の計算ページにおいても、表示する盤をSVGを利用して表示するように変更しました。
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「俺が」が国を滅ぼす

荘子の文は歯に衣着せないといいますかド直球ですね。反対意見も”そういう所をつくのか”という感じです。また儒学者等に対する反論だけ書いているのではなく、なるほどなという意見も多いですね。
外篇、第11、在宥(ざいゆう)の中に以下のような意見があります。

 世俗の人は皆、人が自分の意見に同調することを喜び、反対意見を憎む。
 自分に同調することを欲し、自分と違うことを欲さないのは、衆人よりぬきん出ようとする心が原因だ。
 しかし衆人よりぬきんでようとしても、衆人よりぬきんでることはできない。衆人とともにあればこそ安らかなのに。
 情報、ノウハウ、技術などは(自分一人では)衆人の技の多さにはかなわないのにね。
 それなのに国の頂点に立ちたがる者は、三王(禹、湯、武)の得たものだけをみて、その裏に隠れた努力苦労悩みをみていない。
 こういう者は、人(天下万民)の国をもって(利用して、奪いとって)自身1人だけの僥倖(利益・名誉・地位・権力)を得ようとするものだ。
 (自身の欲望で)僥倖してしまったら、万人の国は滅びてしまう。存続した例は万に一つもない。滅びた事例ばかりだ。
 国を持つ者の無知さの悲しいことよ。

孔子孟子とは全く立場を異にする荘子ですが、なんと孔子の”小人は同じて和せず”等に通じることを言っていますね。
「俺が一番」「俺が得すればいい」「俺のいうとおりにせよ」「俺の手柄だ」というリーダーは国を滅ぼすぞ、周りと共に歩むべきだ、そう言っていますね。時代、立場、思想が違っていてもこの点は変わらないという事でしょう。歴史を見るとその通りで、夏、殷の遙か昔から現代に至るまで、滅びた国はこの意見に当てはまりますね。国(会社)を滅ぼしたければ、荘子の言う悪い例を実行すれば確実に滅ぼせます。
組織のリーダーに対する戒めですね。

リーダーは周りと

どういう人が良い(できる)リーダー(君子)か。易経では何度も言及されている考えですが、とっつきやすく論語から抜き出してみましょう。例えば

學而には:
 有子曰。禮之用和爲貴。
 礼の用は和を貴(とうと)しとなす。
爲政:
 君子周不比。小人比而不周。
 君子は周して比せず。小人は比して周せず。(“比”には誰かに追従する意味もある)
子路:
 君子和而不同。小人同而不和。
 君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。
衞靈公:
 君子矜而不爭。群而不黨。
 君子は矜にして争わず。群して党せず。
子張:
 君子尊賢容衆
 君子は賢を尊び衆をいれ

“和”とか”周”など、これらを見ているとなんとなくニュアンスがありますね。
リーダーがどこかに肩入れすることは無い。どこかと争うわけでもない。独りで全てをやるわけでもない。全てを支配するわけでもない。”俺がやってやった、俺のおかげだ”なんてのもない。もちろん”俺に逆らうな”とか威張ったり暴れたり傍若無人は論外。
ではこれら書物がいうリーダーとはどういうことなのか。
周りの意見をまとめ、周囲の人々の心をあわせ、周りと共に行動しつつも、全ての人々を載っけてあるくリーダー像ということです。
先頭をきって戦う・従わせるのがリーダーではないということですね。この強いリーダータイプでは大きなことはできない、全員がゴールへと到達することはできないのです。仮に何かをなしたとしても長く続かないのです。
今のリーダー論には一強が全てを率い命令していく(従わせる)というのがありますが、論語・易経では逆で、協調や共感(心の感動)、受け入れることなどが説かれます。
おもしろいですね。
今よりも物騒な時代・世界でそれを言い切るのが驚きですね。
さらに言えば、最近の世界のリーダーシップ論は、強さよりも周囲との調整が言われているのです。紀元前の書物にますますもって驚きますね。