「俺が」が国を滅ぼす

荘子の文は歯に衣着せないといいますかド直球ですね。反対意見も”そういう所をつくのか”という感じです。また儒学者等に対する反論だけ書いているのではなく、なるほどなという意見も多いですね。
外篇、第11、在宥(ざいゆう)の中に以下のような意見があります。

 世俗の人は皆、人が自分の意見に同調することを喜び、反対意見を憎む。
 自分に同調することを欲し、自分と違うことを欲さないのは、衆人よりぬきん出ようとする心が原因だ。
 しかし衆人よりぬきんでようとしても、衆人よりぬきんでることはできない。衆人とともにあればこそ安らかなのに。
 情報、ノウハウ、技術などは(自分一人では)衆人の技の多さにはかなわないのにね。
 それなのに国の頂点に立ちたがる者は、三王(禹、湯、武)の得たものだけをみて、その裏に隠れた努力苦労悩みをみていない。
 こういう者は、人(天下万民)の国をもって(利用して、奪いとって)自身1人だけの僥倖(利益・名誉・地位・権力)を得ようとするものだ。
 (自身の欲望で)僥倖してしまったら、万人の国は滅びてしまう。存続した例は万に一つもない。滅びた事例ばかりだ。
 国を持つ者の無知さの悲しいことよ。

孔子孟子とは全く立場を異にする荘子ですが、なんと孔子の”小人は同じて和せず”等に通じることを言っていますね。
「俺が一番」「俺が得すればいい」「俺のいうとおりにせよ」「俺の手柄だ」というリーダーは国を滅ぼすぞ、周りと共に歩むべきだ、そう言っていますね。時代、立場、思想が違っていてもこの点は変わらないという事でしょう。歴史を見るとその通りで、夏、殷の遙か昔から現代に至るまで、滅びた国はこの意見に当てはまりますね。国(会社)を滅ぼしたければ、荘子の言う悪い例を実行すれば確実に滅ぼせます。
組織のリーダーに対する戒めですね。

リーダーは周りと

どういう人が良い(できる)リーダー(君子)か。易経では何度も言及されている考えですが、とっつきやすく論語から抜き出してみましょう。例えば

學而には:
 有子曰。禮之用和爲貴。
 礼の用は和を貴(とうと)しとなす。
爲政:
 君子周不比。小人比而不周。
 君子は周して比せず。小人は比して周せず。(“比”には誰かに追従する意味もある)
子路:
 君子和而不同。小人同而不和。
 君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。
衞靈公:
 君子矜而不爭。群而不黨。
 君子は矜にして争わず。群して党せず。
子張:
 君子尊賢容衆
 君子は賢を尊び衆をいれ

“和”とか”周”など、これらを見ているとなんとなくニュアンスがありますね。
リーダーがどこかに肩入れすることは無い。どこかと争うわけでもない。独りで全てをやるわけでもない。全てを支配するわけでもない。”俺がやってやった、俺のおかげだ”なんてのもない。もちろん”俺に逆らうな”とか威張ったり暴れたり傍若無人は論外。
ではこれら書物がいうリーダーとはどういうことなのか。
周りの意見をまとめ、周囲の人々の心をあわせ、周りと共に行動しつつも、全ての人々を載っけてあるくリーダー像ということです。
先頭をきって戦う・従わせるのがリーダーではないということですね。この強いリーダータイプでは大きなことはできない、全員がゴールへと到達することはできないのです。仮に何かをなしたとしても長く続かないのです。
今のリーダー論には一強が全てを率い命令していく(従わせる)というのがありますが、論語・易経では逆で、協調や共感(心の感動)、受け入れることなどが説かれます。
おもしろいですね。
今よりも物騒な時代・世界でそれを言い切るのが驚きですね。
さらに言えば、最近の世界のリーダーシップ論は、強さよりも周囲との調整が言われているのです。紀元前の書物にますますもって驚きますね。

童子まみゆ

論語、述而第七に

 互鄉難與言。童子見。門人惑。
子曰、「與其進也。不與其退也。唯何甚。人潔己以進、與其潔也。不保其往也。」

互郷、ともに言い難し。童子まみゆ。門人惑う。
子曰、「その進むにくみするなり。その退くにくみせざるなり。ただ何ぞ甚(はなは)だしき。人、己を潔くしてもって進めば、その潔きにくみす。その往を保せざるなり。」

ほとんど注目されることのない節ですね(笑)。
ざっくりいうと、

評判の悪い村の子供が孔子の元に教えを聞きに来た。
孔子は会った。孔子の弟子たちは動揺。もしかしたら「先生、なんであんな子と会ったのですか」と言ったのかもしれない。
そこで孔子が弟子たちをさとした。

とまぁこんな感じです。
諭すところのセリフの訳は、一般には次の2通りが主流になっていますね。

a.「来たことを買った。さがっていたら会わなかった。人が身をきよくして来ればそれを買うものだ。教えた人が帰ってからのことはその人自身の問題だ」
b.「道を聞きに来たので受け入て帰らさないようにした。人が自分をきよくしようと進む時にはそれを買えばいい。過去のことをとやかくいうな」

そして訳の後の解釈では、つまるところ孔子は出自とか噂で人を判断しなかったとしていますね。

違う見方をしましょうか。

これ、易経を読まれた方にはすぐにわかる文ですね。山水蒙(さんすいもう)をもとに言っていますね。
山水蒙さんすいもう

「蒙」は覆っている、おおっていて向こうが見えない、くらい。ですから:

1.まず弟子に「君たちは見えてないねぇ、わかってないねぇ」と言ってます。師から見たら弟子とはそういうものですよね。特にずば抜けている師ともなれば。でも師の方から逐次それを言いに行くことはないです。山水蒙に

 匪我求童蒙。童蒙求我。
自分(師)から童蒙を求めて行くのではない。童蒙が師を求めてくる。

とありますから。

2.「蒙」は”おおう”ですから、聞きに来た童子の内側に純粋さがおおわれていたはずです。もしかしたら不安でおおわれていたかもしれない。その問題に着手したいと思っていたかもしれない。だからたまらず教えをこいに来たのかもしれない。そこに邪心はありませんね。山水蒙はそれを示唆します。
山の下にきれいな水が湧いて泉となっており、それを自分で汲みに行って初めて恵みがありますね。このように弟子が求めてこそ、師が弟子に応じる(師が弟子のくらさをはらう)と言うのが、山水蒙です。

こうみると孔子が「進むにくみする。退くにくみしない。その潔きにくみする。私が行くことはない」(*1)と言っているのがわかりますね。山水蒙の文そのものです。
(*1:山水蒙の内容から、わたしはこのように読んだほうが良いと考えています。)

また象伝の

 君子以果行育德。
君子もって行いを果たし徳を育う

も良いことを言いますね。
おろかだ(くらさに覆われている)からこそ、綺麗な水を汲みに行く努力が必要ですね。ただチョロチョロわく水で一生を終えるのか、それが泉となり、溢れ出て川となり、大川となり、海に至る人生にするのか。

ちなみに、「初六、發蒙。」の「発」は「啓」と同じで、発を置き換えて「啓蒙」という語になったそうです(本田斉著「易経」)。

その言を聴きてその行を観る

論語、公冶長に、

 子曰、「始吾於人也、聽其言而信其行。
 今吾於人也、聽其言而觀其行。」
 始め、われ、人におけるや、その言を聴きて、その行いを信ず。
 今、われ、人におけるや、その言を聴きて、その行を観(み)る。

誰かが何かを言った時、人というのは割とその言葉を信じてしまう傾向があります。それが近ければ近いほど。あるいは言っている相手に地位があるとか肩書きがあるとかの時ほど。孔子ですら最初はそうだったようです。でも孔子はそれを改めました。行動を観るようにしていると。相手の言う事は記憶には留めておくが、最初から全面的に信用せず、その行動が合っているかどうかを観ているということです。中身を観ているのですね。言葉よりも中身で判断します。
にたようなことを、論語、為政でも言っています。でもこれは観察される立場から言っています。

 子曰、「先行其言、而後從之。」
 先にその言を行い、而して後にこれに従う

どちらの文も耳が痛いですねぇ、相変わらず。なかなか出来るものではありませんね。
つい人の言葉に左右されてしまい、中身を見ることができず、本質を見失いがちです。
また逆の立場に自分を置き換えてみると、はたして行動で示してから言葉を付け足せているのかどうか。
議員、経営者、リーダー、親にこれらが求められる場合が多いですね。

人の行動を観るのは簡単そうに思えて簡単ではないでしょう。ちゃんと人の行動(中身、本質)を観れるようになるには、自分自身がタライで手を洗わないといけない、つまり自身が日々の生活で心身ともに正しくないといけないと、気学・易は言います。
あなたが相手を観ているようでいて、実は周りから見られているのは自分。だから身を正せと言います。この論語の2文は表裏一体なのですね。
また観るときの態度にも注意があります。柔らかく周りにあたること。悪意が無いこと。軽々しく行わないこと。考えぬくこと。相手の知恵を借りること。そうして初めて信用が得られ、リーダーとなり、部下等の指導が出来ると言います。そうすると2文目は、リーダーが身を正した行動をすると周りがついて来るようになる、というようにも読めますね。
「孫子」にも、将(リーダー)の資格として「厳」を挙げています(計篇、「将者智信仁勇厳」)。これは相手に厳しいとか威張り散らすとかではなく、まさにこの孔子の言ったこと、その背景にある気学・易の考え方です。自分自身に対して厳しくし、身を正すという事を言っています。部下や協力者の信用を得られずしてリーダーは務まりませんから、そのためにまず自分の身を正せと言っています。
信用を得るための道は、高い山に向かうような感じですね。

悦び

易経や論語を見ていると「孔子って厳しぃーー」と思うのですが、意外や意外、論語の中では「好」「楽」という字が頻繁にでてきます。
「楽しみ(悦び)」というものが必要だと言っていますね。
論語、雍也に
 知之者不如好之者、好之者不如樂之者。
 これを知る者はこれを好む者にしかず。これを好む者はこれを楽しむ者にしかず。
とか、論語、学而に
 …未若貧而樂道…
 …未だ貧しくして道を楽しみ…
とか、論語、雍也に
 …知者楽…
とか。探すともっと出てきます。

趣味のことをしているとき、友だちと話していると楽しくうれしいと思えますが、でもそれはその行為が行われている間だけですね。終われば楽しみ悦びはそこで終わります。(逆もありますね。仕事に打ち込んでいる間だけは嫌なことは忘れているが、終わったら空虚感が出たり嫌なこと思い出したり。)
本当の悦びは、何もしてなくても、独りでいても「うれしい」と思えることでしょうね。これが悦びの極み(完成)ではないでしょうか。
それを得るためにどうするかというと、気学は次のように説きます。
まず自分に何かを入れること。入ってくるものを多くすること。勉強を多くする、人の話を受け入れる、相手を入れる(相手に合わせる)こと。良いものを積極的に入れていきます。自分の要求を先に出すのではなく、周りの要求を先に入れるのも大事とときます。
また入れるだけでなく出すことも大事といいます。どう出すか。感謝や悦びの言葉を出すのか、恨みつらみの言葉を出すのかで違ってきます。
良いものを入れる・出すを繰り返していると、自分の器が大きくなっていきます。自分が切り替りかわってゆくのですね。商売でも時代性や地域性を受け入れて合わせていくのが手ですが、それと同じ事です。自然と変わっていくこともあるでしょうが、受け入れるのですから切り替えざるをえないでしょうね。結局は自分を切り替えろと言っているのです。
このように何を入れ何を心にとどめどう出すか。どう日々切り替わっていくか。これが悦びのもとと気学は説きます。

則不得其正

今回は『論語』ではなく『大学』*1の一節を気学で読んでみましょう。

 所謂脩身在正其心者、
 身有所忿懥、則不得其正、
 有所恐懼、則不得其正、
 有所好樂、則不得其正、
 有所憂患、則不得其正、
 心不在焉、
 視而不見、
 聽而不聞、
 食而不知其味、
 此謂修身在正其心、

 いわゆる身を修むるはその心を正すにありとは、
 身に忿懥(ふんち)するところあるときは、則ちその正を得ず、
 恐懼(きょうく)するところあるときは、則ちその正を得ず、
 好楽するところあるときは、則ちその正を得ず、
 憂患するところあるときは、則ちその正を得ず、
 心ここにあらざれば、
 視れども見えず、
 聴けども聞こえず、
 食らえどもその味を知らず、
 これを身を修むるはその心を正すにありという。

5.先天定位盤 を使ってみます。

daigaku3

怒り、視る=九紫火星
憂い、聞こえにくい=一白水星
楽しむこと、食べること=七赤金星
おそれ=八白土星
です。

まず気づくことは、「視れども見えず…」の部分は「忿懥するところあるときは…」と関係しているということです。同様に「憂患するところ」⇔「聞こえず」、「好楽するところ」⇔「その味を知らず」です。何も思いつきで適当に「見えず」と言っているわけではないとわかります。例えば九紫のことができない(怒る)なら、九紫の他の意味合い(視る)も壊れていく、ということです。”xができないならxの同カテゴリーのyもできないね、当然の結果だよね”という感じでしょう。

次に九紫・一白・七赤・八白を先天定位盤に当てはめてみると面白いことが解ります。この文は盤の反対に位置する2つを頭に描いて言っているとわかります。この図をみていると、両方同時に崩れると言っている感じですね。九紫なり七赤なり片側にとらわれすぎると、その反対側(一、八)まで崩れるという警告です。どこかが出すぎれば全体のバランスが崩れる。天と地に一本柱を立てて、その柱に向かって座り、自分と向かい合う。そうすることで修正せよということでしょう。天=六白、地=二黒です。これは盤の中心にあり、一番上と一番下にあります。この2つをつなげる線はまさしく地から天に向かって伸びる線ですね。正中線ですね。そこをベースに整えれば、心ここに在るということでしょうね。

ついでに五行で見てみます。「視れども見えず、聴けども聞こえず、食らえどもその味を知らず」は「九紫、一白、七赤」ですが、「火と水、火と金」の関係を持ってきていますね。水が悪いと火も悪くなる。だからやはり一つだけといっても外したり行き過ぎてはいけないということが解ります。

こうやって大学をみていると結構面白いです。気学の意味合いを使って言っているなという部分が多いです。さすがに孔子に匹敵するキレや深みがあるとは言いがたいですが興味深いです。
また大学には朱子の注釈のもの(大学章句)がありますが、個人的には章句よりも原本(旧本)の方をお勧めします。

ここまでの投稿で論語を気学・易にそって読むやりかたを5つ紹介しました。論語も大学も、日本語訳を読むだけでは、気学・易から言われているなと気づくことは不可能です。漢字オンリーの原文を眺めることでわかってきます。朱子などの後世の解釈本や日本語訳などは、気学・易から離れて書かれていて、場合によっては、彷徨(さま)よっている場合があります。やはり原文でしょうね。でもイキナリ原文を視ることはできないので、まず読み下し文を読んだ後に、原文を眺めると良いでしょうね。

*1:大学は礼記の一部分。孔子より随分後に作られたと言われている。韓愈(768-828)、程伊川(1033-1107)が注目し、のち朱子が四書の区分けに入れた。