童子まみゆ

論語、述而第七に

 互鄉難與言。童子見。門人惑。
子曰、「與其進也。不與其退也。唯何甚。人潔己以進、與其潔也。不保其往也。」

互郷、ともに言い難し。童子まみゆ。門人惑う。
子曰、「その進むにくみするなり。その退くにくみせざるなり。ただ何ぞ甚(はなは)だしき。人、己を潔くしてもって進めば、その潔きにくみす。その往を保せざるなり。」

ほとんど注目されることのない節ですね(笑)。
ざっくりいうと、

評判の悪い村の子供が孔子の元に教えを聞きに来た。
孔子は会った。孔子の弟子たちは動揺。もしかしたら「先生、なんであんな子と会ったのですか」と言ったのかもしれない。
そこで孔子が弟子たちをさとした。

とまぁこんな感じです。
諭すところのセリフの訳は、一般には次の2通りが主流になっていますね。

a.「来たことを買った。さがっていたら会わなかった。人が身をきよくして来ればそれを買うものだ。教えた人が帰ってからのことはその人自身の問題だ」
b.「道を聞きに来たので受け入て帰らさないようにした。人が自分をきよくしようと進む時にはそれを買えばいい。過去のことをとやかくいうな」

そして訳の後の解釈では、つまるところ孔子は出自とか噂で人を判断しなかったとしていますね。

違う見方をしましょうか。

これ、易経を読まれた方にはすぐにわかる文ですね。山水蒙(さんすいもう)をもとに言っていますね。
山水蒙さんすいもう

「蒙」は覆っている、おおっていて向こうが見えない、くらい。ですから:

1.まず弟子に「君たちは見えてないねぇ、わかってないねぇ」と言ってます。師から見たら弟子とはそういうものですよね。特にずば抜けている師ともなれば。でも師の方から逐次それを言いに行くことはないです。山水蒙に

 匪我求童蒙。童蒙求我。
自分(師)から童蒙を求めて行くのではない。童蒙が師を求めてくる。

とありますから。

2.「蒙」は”おおう”ですから、聞きに来た童子の内側に純粋さがおおわれていたはずです。もしかしたら不安でおおわれていたかもしれない。その問題に着手したいと思っていたかもしれない。だからたまらず教えをこいに来たのかもしれない。そこに邪心はありませんね。山水蒙はそれを示唆します。
山の下にきれいな水が湧いて泉となっており、それを自分で汲みに行って初めて恵みがありますね。このように弟子が求めてこそ、師が弟子に応じる(師が弟子のくらさをはらう)と言うのが、山水蒙です。

こうみると孔子が「進むにくみする。退くにくみしない。その潔きにくみする。私が行くことはない」(*1)と言っているのがわかりますね。山水蒙の文そのものです。
(*1:山水蒙の内容から、わたしはこのように読んだほうが良いと考えています。)

また象伝の

 君子以果行育德。
君子もって行いを果たし徳を育う

も良いことを言いますね。
おろかだ(くらさに覆われている)からこそ、綺麗な水を汲みに行く努力が必要ですね。ただチョロチョロわく水で一生を終えるのか、それが泉となり、溢れ出て川となり、大川となり、海に至る人生にするのか。

ちなみに、「初六、發蒙。」の「発」は「啓」と同じで、発を置き換えて「啓蒙」という語になったそうです(本田斉著「易経」)。